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悪をめぐる議論は仏教の根幹に関わる問題です。善と悪の問題については原始仏教の時代から論じられてきました。悪をなさない、というのは当然ですが、それが具体的にどういうことなのか考えてみると難しいものなのです。
仏教において悪と考えられていた代表的なものは、殺生(生き物を殺すこと)・偸盗(与えられえないものを盗ること)・邪淫(性行為)・妄語(嘘をつくこと)・飲酒(酒を飲むこと)の五悪です。これが後に整理されて、十悪というかたちになりました。
人間の行為を身・口・意に分け、身の悪として殺生・偸盗・邪淫、口の悪として妄語・綺語(無駄なおしゃべり)・悪口(粗暴な言葉)・両舌(中傷の言葉)、意の悪として貪欲(むさぼり求めること)・瞋恚(怒ること)・愚痴(道理を解さないこと)です。
身・口の行為は意が表に現われたものであるので、意の悪が煩悩の根本とされます。ちなみに十悪になって飲酒がなくなっていますが、それは飲酒に限っていえばそれ自体が悪なのではなく、他の悪を誘発しないための戒と考えられていたからです。
ところで仏教にとって現世的な善と悪は相対的なものだといえます。なぜなら悪をなさない、ということの根拠も外面的に表れた行為そのものではなく、そのもとにある煩悩にあるからです。行為をいくら外面的に規制したところで、欲望がなくならない限り無意味なものになります。
こうしてみると、仏教が考える悪の克服とは、悪がなくなり善だけが残ればよいというような単純なものではないことになります。悪も善もお互いを前提とした相対的なものであり、最終的に乗り越えられるべきものは、このような区別なのだといえます。
目指されているのは欲望のコントロールなのです。このような善悪の相対性は、大乗仏教の伝統においても同様です。全ては空であるとする大乗仏教においては、悪という行為が実体としてあるわけではないと考えます。
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