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何も求めずに、ただひたすら坐禅することです。
只管とは、ひたすら、余念を交えないという意味、打坐とは坐禅するということです。つまりただひたすらに坐禅をするという意味です。特に曹洞宗の道元がこの言葉を強調しました。
道元は、坐禅を悟りの手段と考えることや、逆に人は本来悟っているのだから修行は必要ないという考えの両方を批判しました。只管打坐とは、ただ坐禅をするだけで悟りも何も求めないということです。そして坐禅をすることがそのまま悟りのあらわれであるとされました。
多くの仏教宗派においては、坐禅がそれ以外の行と組み合わせられたり、同時に修されることが行われていました。しかし、只管打坐というのは坐禅の際にそれ以外のことを行ったり考えたりすることを否定するものです。したがって只管、つまり「ひたすら」といっても、それは何らかの目的・目標のために一生懸命がんばる、という意味でのひたすらではありません。
只管打坐とは、何かを得たり、悟ったりすることを期待したり目標としたりすることのない坐禅ということです。これが只管打坐、ひたすら坐禅する、という言葉で道元の言わんとしたことです。
道元は坐禅が即ち身心脱落であり、身心脱落が即ち坐禅であるといいます。修行の結果として悟りが得られるのであれば、修行(修)と悟り(証)は別のものになってしまいます。そうではなく、修と証は別のものではなく同じものなのであり、修行を行うところに証があらわれ、また悟りは修行の中にあるということを道元は見出したのです。これを「修証一等」といいます。
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