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道元の用語で、体も心も一切の束縛から解き放たれるということです。道元が宋の如浄禅師のもとで修行し、それによって身心脱落することで、悟りの印可証明を得たとされています。
道元が中国の景徳寺において如浄禅師のもとで修行をしている時の話です。夜の坐禅中に眠ってしまった僧を如浄が叱りました。その言葉を聴いた道元は即座に悟りを得て、夜明けに如浄の部屋に行き、焼香礼拝します。如浄がなぜかと問うと、道元は「身心脱落しました」と答えました。すると如浄は「身心脱落、脱落身心」と言い、道元の悟りの境地を賞賛したということです。
道元は、ひたすら坐禅をして身心脱落することが仏法の核心であると考えました。禅の修行には焼香や礼拝・念仏・懺悔・読経などは不用であり、ただひたすら坐禅することが身心の脱落に通じることなのだと、著作の中で述べたりもしています。
ただし、それは坐禅以外の行に意味がないということではなく、坐禅をする際に余計なことを考える必要はないということなのでしょう。だから悟りを求めてもいけません。その意味では、坐禅をして身心脱落するというよりも、坐禅がそのまま身心脱落なのであると言ったほうが正しいかもしれません。
仏教の悟りというものは、煩悩から解放されることだといえます。道元は単に心の煩悩だけでなく体の煩悩からも解放されなければならないと説きました。道元は「仏道をならうとは自己をならうなり、自己をならうとは自己を忘るるなり」といっています。つまり自己の体や心への執着から生まれる煩悩から解放された境地を、「身心脱落」と言ったのです。
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