嘉禄三年(1227)、宋(中国)から帰国した道元は、しばらくの間、建仁寺に滞在した後、寛喜三年(1231)の春、深草の安養院に移りますが、天福元年(1233)の春、正伝の仏法を広めるための拠点として、新たに興聖寺を建立します。
嘉禎元年(1235)の暮れ、道元は僧堂建立のための勧進を興し、翌年の嘉禎二年には日本で最初の僧堂が完成することになります。その後、道元は、越前に移るまで、十一年にわたって、この興聖寺で法を説き弟子を育てます。懐奘や義介など、主だった道元の弟子たちは、この興聖寺で入門しています。
道元が越前に移ってからは、相次ぐ戦乱もあり、やがて興聖寺は焼失し荒廃していきます。しかし、江戸時代になると、慶安2年(1649)には、当時の淀城主であった永井尚政が荒廃した興聖寺を嘆き、万安英種を迎え、興聖寺の復興を果たします。その後、興聖寺は宇治七名園の一つの朝日茶園の跡地に移され再建されました。それからの興聖寺は、江戸時代を通じて隆盛を極めるようになります。多くの末寺をもつようになり、修行者は諸国から集るようになり、曹洞宗の修行道場として有名になりました。
現在、興聖寺は京都府宇治市にあります。伽藍としては、法堂、僧堂、大書院、庫裏などがあります。法堂に向かって、左側には僧堂、右側には庫裏があり、前庭を囲んでいます。それぞれの建物は回廊で結ばれています。
法堂は伏見城の遺構を用いて建立されているので、天井には落城の時の血の手形足跡が残る縁板が残っています。前縁は鶯張りの廊下になっています。本尊には道元自作と伝わる釈迦牟尼仏が祀られています。また、開山堂には道元の御真像が祀られています。その体内には、道元の御霊骨が納められています。
山門は竜宮造りです。この山門まで一直線に続く長い参道は、なだらかな坂道であり、脇を流れる谷川の音が琴の音に似ているところから「琴坂」と呼ばれています。この琴坂は、もみじの名所として、宇治十二景の一つに数えられています。
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