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増上寺は、明徳四(1393)年、浄土宗第八祖・聖聡(しょうそう)によって、豊島郡貝塚(今の千代田区平河町・横河町・麹町界隈)に開創されます。浄土宗の根本道場として、関東の武将達から支援を受けた増上寺は、一大寺院へと発展しました。
天正十八(1590)年、江戸に移ることになった徳川家康は、増上寺を江戸での菩提寺と定めます。熱心な浄土宗の信仰者でもあった家康は、江戸に入るとすぐに当時の住職・存應に帰依したと言われています。
江戸城の拡張にともなって、慶長三(1598)年、増上寺は現在の地に移設。その境内の広さは二十万坪という広大なものでした。
全国平定を終えた家康は天下泰平を願い、増上寺に大蔵経(全てのお経を集めたもの)を寄進。大蔵経は、高麗版・宋版・元版の三種で、現在も増上寺内にある経蔵に収蔵され、戦災を免れて、現存しています。
増上寺は、浄土宗の修行道場・学問の中心として、その広大な敷地(最盛期には約二十五万坪に達した)に、常時三千人の修行僧を擁していたそうです。また、徳川家の菩提寺として、将軍(二代・六代・七代・九代・十二代・十四代)・正室・側室たちの霊廟も構えていました。その壮麗さは見事なものだったようで、国宝にも指定されていましたが、残念ながら戦災で消失、現在は一箇所にまとめられています。
戦災に見舞われた増上寺ですが、江戸時代の姿をそのままに伝えるものに、経蔵(先述)、梵鐘、三門があります。梵鐘は関東以北では最大のもので、延宝元(1673)年鋳造。江戸っ子に時を告げていたその様子は、落語や歌舞伎などにもしばしば登場しています。
お寺の門は普通、山門と書きますが、増上寺は三門と書きます。門をくぐることで三毒(三つの煩悩)を洗い清めるという意味で、正式名称を三解脱門と言い、そこから三門と書かれるようなったようです。
江戸時代に隆盛を誇った増上寺ですが、明治維新期に、広大な寺領・境内地を没収されてしまいます。今の芝公園一帯(東京タワーも)は、もとは増上寺の境内地だったのです。
現在の増上寺は、戦災から復興し、浄土宗の大本山として整備されています。東京の中心地に一万六千坪の境内を有し、宗教文化の発信基地として、また、都会の人たちの憩いの場として親しまれています。
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