|
道元は正治二年(1200)正月二日に生まれました。八歳のとき、母を亡くし、十三歳で出家して比叡山にのぼります。翌年の建暦三年(1213)四月、天台座主公円のもとで受戒し僧となります。それから数年間、比叡山で修行を続けます。
健保五年(1217)の秋、建仁寺を訪ね、栄西の弟子である明全より、禅宗の教えを学びます。しかし、宋(中国)に伝わる禅宗の教えを、宋へ行って学びたいと思い、宋へ行くことを決意します。そして、貞応二年(1223)の春、明全と一緒に宋へ旅立ちます。
宋の慶元府に到着すると、しばらくの間、船中に留まります。その間に、阿育王山の老典座と出会い、食事を作ることが大切な修行であると教えられます。そのときの体験は後に著される『典座教訓』に詳しく記されています。それから三ヵ月ほどして、天童山の景徳寺で修行することになります。宝慶元年(1225)五月、浄慈寺から景徳寺に転住した如浄と出会い、その後、如浄のもとで修行を続けます。やがて、身心脱落の体験をすると、如浄に認められ、如浄の仏法を受け継ぐことになります。
嘉禄三年(1227)、道元は日本へ帰ります。同年の秋、建仁寺に戻り、坐禅の仕方を述べた『普勧坐禅儀』を著します。そして、寛喜三年(1231)、安養院へ移り、坐禅の大切さを述べた『弁道話』を著します。
天福元年(1233)、興聖寺を建立し、正伝の仏法を弘めるための拠点とします。翌年の文暦元年(1234)、日本達磨宗の懐奘が道元を訪ね入門します。
その後、教団の基礎が形成されていきますが、比叡山からの圧力が次第に厳しくなっていきます。そこで、道元は、越前へ移ることを決意し、寛元元年(1243)七月、京都を離れ越前に向かいます。
越前に到着すると、吉峰寺に留まりますが、寛元二年(1244)には、大仏寺が建立されます。大仏寺は、寛元四年(1246)に永平寺と改名されます。
道元は、宝治元年(1247)八月、北条時頼の要請により、鎌倉へ出かけます。翌年の三月、永平寺に戻り、その後は、弟子たちの指導に専念します。道元は多くの教えを遺していますが、その教えは『正法眼蔵』と『永平広録』に収められています。
建長四年(1252)の秋、道元は体調を崩します。翌年の建長五年(1253)八月、療養のために京都へ行きますが、八月二八日の夜半、道元は亡くなります。
|