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日本に初めて臨済宗の教えをもたらした栄西は、栄治元(1141)年、備中(今の岡山県)にある吉備津神社の神官の子として生誕。当時は、神仏習合の時代であり、神官の子であった栄西が比叡山に入ることは不思議なことではなかったようです。
久寿三(1153)年、十三歳で比叡山に入った栄西は、翌年に授戒。最初は密教を学びましたが、やがて形骸化した天台の修行に疑問を抱いた栄西は、28歳で宋(当時の中国)に渡ります。宋からは、天台の経典などを持ち帰りました。
その後、九州で住職を務めるなどして過ごしていましたが、文治三(1187)年、二度目の入宋を果たします。この入宋では、中国臨済禅を学びました。
帰国した栄西は九州を中心に臨済禅を布教。都でも活動を志しましたが、禅宗拡大を恐れた天台宗の圧力により、かないませんでした。九州に戻った栄西は博多に聖福寺を建立、日本初の禅道場としました。
建久九(1198)年、栄西は『興禅護国論』を著述。禅宗が他宗排斥の意図はなく、国家繁栄のためになると、禅宗の正統性を説きました。翌年には、鎌倉に赴いた栄西は、幕府の支持を受けることに成功。正治二(1200)年、北条政子が鎌倉に寿福寺を建立、栄西は住職として招かれます。また、二年後には京都に建仁寺を建立、鎌倉と京都での臨済宗興隆の基礎を固めました。
建保三(1215)年、75歳で入滅。その地は鎌倉寿福寺であるとも、京都であったとも伝えられています。
また、栄西は『喫茶養生記』という書物を著しています。これはお茶の効用を解説したもので、栄西は禅だけでなく、お茶の習慣も日本に広めた人物でもあるのです。
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