懐奘(えじょう)は、建久九年(1198)、京都で生まれました。建保三年(1215)、十八歳のとき、出家し、比叡山へ行き、横川(よかわ)の円能について剃髪しました。ついで、建保六年(1218)、二十一歳のとき、延暦寺の戒壇院で菩薩戒を受けます。
比叡山での修学では、天台宗の教えばかりでなく、倶舎宗、成実宗、三論宗、法相宗などの基礎的な南都仏教の教えについても学んでいます。しかし、懐奘は、比叡山での修学に満足せず、比叡山を下りることになります。そして、西山の往生院を訪ね、証空より浄土教の教えを学び、その奥義を究めることになりますが、それでも満足できず、大和の多武峰に行き、日本達磨宗の覚晏に参じ、その教えを学びます。
日本達磨宗は禅宗の流れを汲む宗派ですが、覚晏や懐奘たちは、入宋して曹洞宗の教えを学んできた道元に強い関心を懐いていました。
寛喜元年(1229)ころ、懐奘は建仁寺の道元を訪ねています。それから数年後、すでに道元は興聖寺に移っていましたが、文暦元年(1234)の冬、懐奘は興聖寺の道元を訪ね弟子となります。
その後、道元が亡くなる建長五年(1253)まで、懐奘は決して道元のもとを離れることはありませんでした。いつも道元に随侍して、道元が説いた教えを後世に伝えるため、道元の多くの著作を助けました。中でも、『正法眼蔵』各巻の浄書や校合は、懐奘の大きな業績といえるでしょう。
建長五年(1253)七月、道元の後を継ぎ、懐奘は永平寺第二代の住持となります。文永四年(1267)、十五年に及んだ永平寺の住持を弟子の義介に譲り、自らは東堂(とうどう)(前住職の位)となります。しかし、文永九年(1279)、義介が永平寺の住持を退くことになり、懐奘は再び住持となりますが、弘安三年(1280)八月、八十三歳で亡くなります。
懐奘は、道元に入門してから数年間、それは嘉禎年間(1235〜1238)ですが、道元の教えを克明に記録しています。そのときの記録は、後になって、『正法眼蔵随聞記』六巻として編集されます。
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