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鑑真は688年に中国の揚州で生まれました。当時の中国の交通の要所であり、日本から来る人々も揚州を通って長安・洛陽を目指しました。ですので揚州は日本人にとって中継地点として非常に重要な場所だったのです。
701年、鑑真は14歳の時、この揚州の知満禅師のもとで出家し弟子となりました。やがて18歳になると、「受戒の主」と仰がれる光州の道岸禅師の下で戒律を授かりました。
20歳で洛陽に渡り、その翌年にはついに長安に行くことになりました。この後鑑真は長安と洛陽を往来しながら、中国の中心に集まる有名な僧侶の教えを学ぶことになります。こうして鑑真は一流の僧侶として成長していき、26歳で故郷に帰った頃には、律の第一人者として目されるまでになっていました。丁度712年、玄宗が皇帝となった唐の最盛期でした。
揚州に帰った鑑真は後進の育成と、信徒の教化に力を入れていました。特に戒律の授業が数多く行われ、一説には4万人もの弟子を育成したそうです。また寺院の建立や仏像の造営にも積極的で、多くのものを残しました。
ところで、当時の日本において、戒を授ける際に必要な10人の僧侶が、正式に揃った事がありませんでした。国内では正式な受戒が出来なかったのです。また僧侶の堕落も目を覆うばかりで、正式な僧侶育成システムを構築することが急務だったのです。
そして栄叡と普照という二人の僧がその任を負って中国に来たのが733年でした。何人もの名僧をスカウトする中で、やがて彼らは鑑真の名声を聞きつけ、鑑真に来日を請いに来ました。742年の事です。
ところが鑑真の来日は簡単には実現しませんでした。計5回失敗する中で栄叡は病死し、鑑真は失明してしまいます。しかし鑑真も日本側も鑑真の来日を諦めず、ついに6回目の渡航で、754年に鑑真は日本に着いたのでした。
同年4月、鑑真は東大寺大仏殿の前に戒壇を開き、聖武上皇など430人余りに授戒を行いました。翌年には東大寺に戒壇院が完成し、759年には唐招提寺も創建されました。また都のみならず筑紫観世音寺、下野薬師寺でも戒壇が開かれるに至りました。
このように日本の僧侶養成に多大な貢献があった鑑真は、763年に唐招提寺で亡くなりました。76歳のことでした。
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