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行基は668年、天智天皇が即位した年に生まれました。父は百済の王の子孫とも伝えられます。百済は日本の仏教文化に多大な影響をもたらした朝鮮の国でしたので、このような出自は後の行基を考える上で重要な点と言われています。
天智天皇の死後、壬申の乱が勃発し、天武天皇が即位します。この結果律令体制整備が一気に進み、寺院僧侶に対する統制も厳しくなります。簡単に出家が許されなくなるような状況下、行基が出家できたのもこのような家柄であったから、なのかもしれません。
行基は『西遊記』で名高い玄奘三蔵の弟子・道昭の弟子として682年、15歳のときに出家します。道昭は飛鳥寺で弟子の養成に励む傍ら、社会事業も行っていました。人々のために井戸を掘り、橋を作ったりしていたのです。行基がこの影響を濃厚に受けていたことも明白です。
701年、大宝律令が施行されると、朝廷の支配体制は確立します。行基は官僧として支配体制側に回ることも出来ましたが、その道を選ばず民衆に仏教を広めて、社会活動を行う道を選びました。彼が盛んに僧院を作り、民間で社会活動した事により、彼はやがて「行基菩薩」と呼ばれ尊敬の念を集めるようになりました。
ところがそのような行基を疎ましく思った朝廷は、717年に行基の布教を僧尼令違反として禁圧する詔を発し、弾圧しました。この弾圧は政府の指導者である藤原不比等が720年に死ぬと若干弱まりますが、それでも基本的に、朝廷にとって行基は疎ましい存在でした。
仏教に厚い聖武天皇は、741年に国分寺建立を、さらに743年に「盧舎那大仏造顕の詔」を発しました。その詔には天皇の仏教への帰依が感じられるとともに、民間の活力も大いに期待している事が書かれていました。広く民衆に呼びかけ、民力を結集して大仏の造営を行う決意を示したことは、国が行っている国分寺建立が遅々として進まない事も背景にありました。
この多大な費用と労働力が必要とされる難事業において、造営の費用を勧進する役に任じられたのが行基でした。民衆を動員するためには行基の手腕を借りなければならなかったのです。行基76歳のときでした。
その後行基は78歳で大僧正に任じられるなど国に重んじられ続けました。しかし749年に病を発すると、同じ年に82歳で亡くなったのでした。
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