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捨聖(すてひじり)とよばれた一遍は、鎌倉時代後半の延応元(1239)年、伊予国(現・愛媛県)の河野家に生まれました。10歳の時に母親が死ぬと、出家していた父親の命で、彼自身も出家しました。
13歳の時に縁あって九州太宰府、聖達の弟子となります。聖達は浄土宗祖法然の弟子の弟子に当たる人です。聖達は一遍を1年間他の僧に預けた後、12年間指導して、浄土教の教えを勉強させたそうです。
弘長3(1263)年、父親が死ぬと伊予に戻りますが、一遍はこの頃「半僧半俗」のような状態で、仏道に専念している訳ではなかったのです。ところがその伊予で、文永8(1271)年、一遍は親類間のいざこざにより殺されかけてしまいます。これがもとで、一遍は再び仏道に専念する決心をしました。
一遍が修行の再スタートに選んだ地は信州・善光寺でした。ここで一遍は「二河白道の図」を写して自分の本尊としました。「二河白道」とは、全ての人を救おうとする釈迦仏・阿弥陀仏の慈悲あふれる教えを具体的に表した図であり、中国浄土教の師・善導が説いた思想を説明するためのたとえと言われています。
一遍はこの本尊と共に一端伊予に帰って、今度は財産を捨て、一族とも縁を切り、遊行の旅へと出たのです。そして、その途中熊野で熊野権現の啓示を受けて、悟りを開いたとされます。そして、この時をもって彼を開祖とする「時宗」が成立したと考えます。
一遍は「南無阿弥陀仏」という名号を全てだと考えました。この六字に絶対的な救済の力が込められていると考えたのです。そしてこれを称える以外の行を積極的に捨てていきました。そのために「捨聖」と呼ばれるようになったと言います。またこの態度は学問や理論的側面からではなく、実践的側面から悟りに近づこうとしたとも言えるかも知れません。そして「南無阿弥陀仏」と称える事を人々に勧めたのです。これを「念仏勧進」といいます。そして念仏を称える人には「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と書かれた札を配りました。
また、彼は弘安2(1279)年からは踊念仏を始めました。これは「念仏を称える事で心が澄んで悟りに近づいた喜びから自然と体が動くのだ。」と説明されます。
一遍は正応2(1289)年、兵庫の観音堂でその一生を終えます。捨聖一遍は自身の著作を残していません。弟子達の記録などによる『一遍上人語録』などのみでその一生を追う事が出来るのです。
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