瑩山は文永元年(1264)に生まれました。幼名を行生(ぎょうしょう)といいます。幼いころより、母とともに十一面観音を信仰していました。八歳のとき、自ら観音のようになりたいと念願し、出家して永平寺に入りました。五年後の建治二年(1276)、十三歳になった行生は、懐奘(えじょう)のもとで受戒し僧となり、名前を瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)と改めます。
それから四年後、瑩山が十七歳のとき、得度の師である懐奘が亡くなります。その後、義介が永平寺の住持となり、義介のもとで修行することになります。しかし、次の年、弘安四年(1281)、義介の指示により、宝慶寺の寂円のところへ行きます。その後、京都で臨済宗の教えを学び、さらに、紀州の西方寺(現在の興国寺)へ行き、無本覚心のもとで修行し、少なからず影響を受けることになります。弘安八年(1285)、西方寺での修行を終えた瑩山は宝慶寺へ帰り、同年に永平寺へ帰ります。
正応四年(1291)、二十八歳になった瑩山は、四国の城万寺(現在の城満寺)の住職となります。次の年、義介の後を継ぎ永平寺の住持となった義演より、受戒の作法を伝授され、信者に戒を授けます。この城万寺で七十数名の信者に戒を授けたといわれています。
瑩山の師である義介は、瑩山が城万寺の住持になったあと、加賀の大乗寺の住持となりますが、瑩山は、永仁二年(1294)、大乗寺の義介のところへ戻ります。永仁六年(1298)、義介は大乗寺の住持を退き、瑩山が義介の後を継ぎ第二代住持となります。そして、歴代祖師の教えを弟子たちに提唱します。それは後に『伝光録』という著作にまとめられます。しかし、延慶二年(1309)に義介が亡くなると、新寺建立の志を発し、大乗寺は覚心の弟子である恭翁運良に任せるのです。
文保元年(1317)には永光寺の僧堂を建立します。元亨元年(1321)には總持寺を開創します。そして、元亨二年(1322)には永光寺の仏殿を建立します。また、同年、母が大切にしていた十一面観音を本尊とする円通院を建立し、弟子の祖忍に与えます。
瑩山は、永光寺と總持寺を建立するのですが、總持寺を弟子の峨山韶碩に譲り、永光寺を弟子の明峰素哲に譲ります。そして、正中二年(1325)、八月十五日の夜半、瑩山は永光寺で亡くなります。
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